−高橋徹版「展覧会の絵」−

◇「禿山の一夜」(ムソルグスキー/高橋徹編)
◆「展覧会の絵」(ムソルグスキー/高橋徹編)

指揮 : JAN VAN DER ROOST
演奏 : The Symphonic Band ofThe Lemments Conservatory
 (de haske/DHR 11.006-3)

 吹奏楽による「展覧会の絵」の演奏の場合、ラヴェル版に基づいた編曲がされている場合が殆どですが、ここで演奏されているのは高橋徹がムソルグスキーのオリジナル(ピアノ版)から新たにオーケストレーションしたものです。(従って、ラヴェルが割愛した「リモージュ」の前の、最後の「プロムナード」も含みます)

 さて、「展覧会の絵」を新たに編曲し発表するということは、相当にやりづらい事であると思います。その理由としては、現在では完全にオーケストラのレパートリーとして定着してしまっているラヴェル版が余りにも知られ過ぎていること、そして、そのラヴェル版は「この曲は、こう編曲するしかない!」という部分をしっかり押さえてしまっていること、さらにより自由にイマジネーションを膨らませたストコフスキー版なども最近録音されたりコンサートで取り上げられたりしていること等々。そして、当然それらの編曲と『比較』されることになるのが目に見えているのです。そういう状況の中で、この高橋版は十分にオリジナリティを発揮しているし、「展覧会の絵」コレクターであれば、その中に加える価値は十分にある録音であることは間違いないと思います。(ちなみに、カップリングの「禿山の一夜」は、通常演奏されるリムスキー=コルサコフ版に基づく編曲です)

 この高橋版、「ラヴェル版にはよらない」と謳っているものの、どうしても似てしまう部分、あるいは明らかにラヴェル版を(意識的に?)取り入れている部分(最後の「プロムナード」など)もあります。詳細をここで書いてしまうと、これから聴く人の楽しみが半減すると思いますので割愛しますが、一つだけ挙げさせてもらうと「キエフの大門」の終結部、主題が最後に再現する部分。ここは原曲では一つ一つの音にフェルマータが付けられた伸ばしの音になっているのですが、ラヴェルはフェルマータを取り去り通常の音の長さに書き換え、さらに裏拍に鐘などの打楽器を加えています。この「裏拍に原曲に書かれていない(打楽器の)アクセントを加える」というやり方はこの高橋版も、さらにストコフスキー版でも踏襲されており、この部分ではラヴェルに屈服せざるを得なかったのでしょうか。

 さて、この高橋版「展覧会の絵」、好き嫌いは別にして、ただ一つだけ納得のいかない(?)部分があります。それは「ビドロ(牛車)」です。

 ピアニストのアシュケナージはオリジナル版についてこう書いています。「ラヴェルの総譜における完全に不適切な解釈(pp とチューバのソロ)とは対照的な、フォルティッシモの開始に注目して欲しい」(下線筆者)...オリジナルの譜面を見ると明らかなように、ムソルグスキーはこの曲をいきなり最強奏から開始するように書いているのです。高橋版は何故、ここでラヴェルを踏襲して弱奏で始めたのか?確かに「遠くから近付いてきて、また遠くへ去っていく」というアイデアもありかもしれない。しかし、ムソルグスキーのイメージと異なることは明らかです。また、ラヴェルがこのような書き方をしたのは、彼が編曲の際に使用した楽譜がリムスキー=コルサコフによって校訂されたもので、その校訂版ではオリジナル版に手が加えられていた(それ以外の何ヶ所かの音の違いも含めて)、つまり、ラヴェルは『譜面通り』に編曲していたのです。実は、ストコフスキーもこの部分はオリジナルとラヴェル版を足して2で割ったような中途半端なスコアを書いています。ここでも、ラヴェルの『呪縛』から抜け出せなかったのか...!?

 最後に「展覧会の絵」についてのアシュケナージの言葉を再度引用して終わりたいと思います。

 演奏者が(中略)この作品にどれほどの善と悪、悲劇と陳腐、おとぎ話と無味乾燥な現実性とが含まれているかを認識すれば、作曲家の意図したものを実現させる正しい方向に向かっていると言えよう。しかし、この作品をもっぱらエンターテイメントとして扱うならば、演奏者の苦闘(実際、これは難曲である!)もむだとなり、その努力も水泡に帰すであろう。

00/10/18

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